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みんな嘘が大好き

 

痴漢冤罪で社会から抹殺されかけた。 - 自省log

個人ブログの嘘はどこまで許されるのかなって話 - ネットの海の渚にて

 

二件のエントリを読んで色々考えさせられた。※参考

僕は基本的にあまり物事を真剣に捉えない方なので、こういう話題を見ても『誰もひどく傷つかなければ別に真実でも嘘でもどっちでも良くね?』という感じである。
ただ、基本的に書き手の責任というのは問われるべきと考えているので、こういうデリケートな範囲に引っかかるような話題の時は気をつけて書きたいなーと。
特に1次的な反応の予想はつきやすいけれど、2次3次以降の反応は予想外の方向に転がっていくので、全く検討もつかない所から石が飛んでくる可能性がある。

今回は結構ブコメを見ると信じてる人も多く、これだけブコメが付けばアチコチに転載されはじめているだろう。
で、痴漢冤罪などの議論が出た時に痴漢を疑われた人の事例としてコピペされたりするんじゃなかろうか。
昨今のネット議論では嘘や騙しに対して、かなり過激で不毛なやりとりが行われているわけで、そんな中に巻き込まれるのは考えただけでもウンザリ、である。
ま、そこら辺のウンザリをきちんと巻き取ってケツが拭ける範囲なら、デリケートなネタも全然やったらいいじゃんと思う。

 

外国の事情はちょっと違うようだ

とはいえ、ここまでブログの書き手が色々考えなくっちゃいけないのは日本独特なのかもしれない。
ちょうどコウモリさんのエントリでこんなのが出てた。

フランスと日本、コミュニケーションの違い/ニートのフランス滞在記② - コウモリの世界の図解

つまり、ローマ法では債権者主義≒受信者が責任を持つ、それがデフォルト。
しかし日本の民法では、債務者主義≒発信者が責任を持つ、それがデフォルト。

必ずしも全てに当てはまるとは言えないだろうけれど、少なくともフランスでは受信者にも一定の責任があると捉えられているようだ。
どちらにも一長一短あるとは思うが、受信者の責任もある程度無くてはリテラシーは育たぬ気もする。

 

ちなみに調べてみるとフィクションの但し書きについても日本が発祥(ひょっとしたら日本独特のもの)らしい。
Wikipediaにはこんな記述がある。

本作が放送され始めてから間もなく、神戸市に在住していた「ドルゲ」姓のドイツ人音楽講師が、「『バロム・1』 に出てくるドルゲがもとで息子がいじめられるかも知れない」として放送局に抗議、名前使用差し止めの仮処分申請をする事件が起きた。このことは当時の新聞(朝日新聞1972年8月25日、1972年9月26日)に掲載され[15]、第29話以降(再放送では第1話から)、番組オープニング・タイトルのラストにフィクション作品であることを示す注意テロップが挿入されるようになった(子供にもわかるよう、漢字を使わないテロップとしている)。

 バロム・1 - Wikipedia

同じようなクレームはもちろん外国でも出てるだろうけどどうしているのだろうか。
面倒になってきたので誰か詳しく調べてちょ。

 

良い嘘はいかんのか?

このへんのネット倫理の問題は突き詰めていくと「嘘はなぜ良くないのか?」ということになり、インターネットでチコチコ調べている程度では答えが出てこない命題である。
かの偉大なるカント(女性器で無いほう)がこの辺りを倫理学として取り扱っているらしい。
が、このへんの倫理観も個人それぞれによって違うので結局「自己責任で好きにやればぁ?」ということになってしまう。


ネットでのいい話デマについても色々な人の色々話を読んでみたがよくわからない。
「ノイズが多くなる」とか「リテラシーが育たない」などの否定になっていないような否定の仕方で、明確に「これこれこうなのでいい話デマはあかん」という理由に答えられていない。
このへんはだれかカント(女性器で無いほう)に詳しい人に解説をお願いしたいところである。

 

一杯のかけそば

色々調べているうちに、いい話デマとしてのレジェンド「一杯のかけそば」がとても懐かしくなって読んでしまった。
たしかこれは僕が中学生の頃流行ってて、僕もプリントか何か配られて読んだ気がする。
隣のクラスは確かビデオとか作ってた気がするなぁ。

一杯のかけそば

今読んでみるとフィクションと知っていてもなかなか出来がよく、ついつい引きこまれ恥ずかしいかな、最後のあたりでウルウルっと来てしまった。

 

あ、もちろん嘘です。