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アクト・オブ・キリングむちゃくちゃ面白かった

いやー、以前この映画のレビュー記事読んで見たいなーと思ってて、

人ならざる者の撮影に成功! 衝撃のドキュメンタリー『アクト・オブ・キリング』が4月公開:サトウタクシBLOG

でも鹿児島上映するところがなくってDVD待ちかぁーとがっかりしていたのですが、そこは鹿児島映画界の良心、ガーデンズシネマさんがやってくれたということで本日見に行ってきました。いやーガーデンズシネマは神。

そんなわけで、結末がどうとかそういう映画じゃないし何がどうネタバレなのか分からないけど以下全面的にネタバレの感想ですので。

 

 

 

 

 

もうほんとすごいっすねこの映画。
色々感想はあるんだけど、とにかく絵が綺麗で気持ち悪い。
ドキュメンタリーってまあ人物主体だから結構絵はどうでもいい的な所あるじゃないですか。
ところが冒頭のシーンから「あれ、ドキュメンタリーだよね?」と思うようなカットから入って、その後もいちいち印象的なシーンが差し込まれたりする。
再現シーンも現地スタッフを使ってしっかり撮ってるから異様にクオリティがしっかりしててドキュメンタリー感が一瞬無くなったりしてしまう。
隠し撮りじゃなくて正面から堂々と撮影していて、そいつらが堂々と殺人についての話しをしているのだから、リアリティが無さ過ぎて、でも話は生々しすぎてそこが凄く気持ち悪いのだ。

それにしてもすごいのは何もかもが狂っているというところだ。
主人公は大量虐殺をしてきた爺さんと、デブのギャングの二人。

主人公二人もおかしいはおかしいんだけど、この二人がまともに見えるほど舞台になっているインドネシアの社会自体が歪みきっている。
政治家はギャングとの癒着をにこやかに公言し、新聞社は悪びれもせず「共産主義者を悪く思わせるために印象操作した」と曰い、テレビの女子アナウンサーがにこやかに「大量虐殺したんですね?」と問いかける。
その一部始終をカメラが淡々と追い続け、それを撮られること取材されることを疑問と思わない人々。
いや、恐らく全員が全員この社会がおかしいということには気がついているんだけど、それを認めてしまうと自我が崩壊していまうからそれを認めることができない状態なんだろう。

 

また、出てくる人物はほとんどが殺人者なのだけれど、大きく分けると指示した側と実行した側に分かれている。
指示した側は実行者達を「こいつらは英雄だ!」という感じで称えるわけだけれど、恐らく実際には手駒くらいにしか思っていない。
実行者たちは地元の英雄と言えど、実際はチンピラのように地元の華僑達から金をせびって暮らす毎日で、一般市民たちからは「金を持っている」と思われているが実はそんなに優雅な生活をしている風ではない。
一方殺人者たちを指示してきた側は実権を手にして、ゴルフやパーティー、夜は女性を取っ替え引っ替え(具体的にそんなシーンはないがそれを暗喩するシーンはある)と言った感じである。
この辺りのヒエラルキーが浮き彫りにされていて、見ているうちに殺人者である爺さんがちょっぴり不憫になってくる。

 

そう、恐らくこの主人公の爺さんはごく普通の人間なのだ。
ちょっとお調子者だった街のワルが、おだてられるとすぐ乗っちゃうのを上手く使われて殺人者にされてしまったのだ。
最初のほうで知事が爺さんを横に「みんなコイツを恐れていたんだけれど俺だけ怖がらなかった。使い方をわきまえていれば怖くないんだよ」とかボロッと言っていて、おいおいそれ隣に本人がいるところで言っていいの?と笑ってしまったが実際これが現実なんだろう。

 

それにしても主人公の爺さんは不憫である。
殺戮した人たち側で一番純粋に自分の「仕事」を誇りに思い込んでいたのではないだろうか。
それをある日突然やってきた映画クルーにこれまた上手く調子に乗せられて、気が付かないうちに自分の心に溜まっていた澱に近づいていってしまうわけだ。

途中で一緒に行動していたアディと言うおっさんが出てくるんだけど、彼は非常に客観的で、この映画クルーの企みにも気がつく。
「優しく慈悲のある殺し方をしていた」と自分たちの行為を正当化していた爺さんたちに、撮影現場で「いや俺達のやってきたことは残酷だったんだよ!」と爆弾をぶちかましてしまう。
この人は元から自分的のやってきたことの意味にも気がついていて「でも当時は仕方がなかったし、罪じゃなかったししょうがないじゃん!」と割り切れる人だったのでこういう事を言えるのだけど、自分たちが正しいことをしてきたと信じていた爺さんにはきつい。

 

そんな爺さんが、殺された側の人の演技もすることになり、ここから爺さんの心理状態は一気に崩壊していく。
僕が知っている心理的なセラピーの一つで、「過去に問題があった時に擬似的に戻り、その時の自分になってみたり相手になってみたりする」という物がある。
勿論これはセラピーなので悪い心理状態の人を良くするために使うものらしい。
しかし意図したのかどうかはわからないけれど、映画クルーはこれと全く同じことを爺さんに体験させたわけだ。
圧倒的なリアリティある映像を見せ、自分で再現してもらい、相手の気持を体感させて、という感じで。
自分の信じていたアイデンティティを粉々に砕かれ、オマエの実際の本性はこれなんだとつきつけられた爺さん。
ある意味この撮影クルーもサディスティックだ。

 

それまでも心のなかの良心が悪夢となって出てきていた爺さんだが、今まで以上に悪夢に悩まされるのではないだろうか。
正直エンドロールに「アンワル氏はこの撮影の後、自ら命を云々」という文字が入るのではないか、それほどこの主役の人物を追い詰める内容だったし、それがこの先いつ起こってもおかしくない。
1000人殺したというアンワル爺さんの行為は決して許されるわけではない。
しかし彼がこれをしなくても他の誰かがこれをしていただろうということ、これを指示した側の人達が何の罪悪感も感じずに生活していること、そして歪んだ社会が歪みを抱えたまま転がり続けているという事実を考えると、正しいということはどういうことなのだろうかと解らなくなってしまう。

 

レビューなどではラストが印象的だという人も多かったですが、個人的に物語の中盤、殺戮をしてきた人達の前で自分の父親(継父?)を殺されたという映画の現地スタッフが笑顔でその体験談を話しているシーンもものすごく印象的でした。